聖アウグスティヌス『告白』(上)(下)(岩波文庫)

 

告白 上 (岩波文庫 青 805-1)

告白 上 (岩波文庫 青 805-1)

アウグス ティヌス 告白 (下) (岩波文庫 青 805-2)

アウグス ティヌス 告白 (下) (岩波文庫 青 805-2)

 
 前半は自伝。神の栄光を称えながら自分の半生を振り返っていくスタイル。個人的には後半の時間論の方が興味を持って読めた。
 

 ――わたしはカルタゴに来た。すると、わたしのまわり至るところに、恥ずべき情事の大釜がふつふつと音をたてていた。わたしはまだ愛してはいなかったが、愛することを愛して、心ひそかに欲しがり、わたしがあまり欲しがらないことを嫌った。わたしは、愛することを愛して愛の対象を求めていた。そして安全を嫌って、罠のない道を好まなかった。わたしは、内において、内心の糧に、すなわちわたしの神よ、あなた自身に飢えていたが、しかもこの飢えのゆえに空腹を覚えることはなく、不朽の栄養をとろうとする欲望を感じなかったからである。第三巻第一章

 

 ――幸福な生活は心理を喜ぶことなのである。第十巻第二十三章

 

 ――なにものも過ぎ去るものがなければ、過去という時間に存在せず、なにものも到来するものがなければ、未来という時間は存在せず、なにものも存在するものがなければ、現在という時間は存在しないであろう。わたしはそれだけのことは知っているということができる。しかし、それではかの二つの時間、すなわち過去と未来とは、過去とはもはや存在せず、未来はまだ存在しないのであるから、どのようにして存在するのであろうか。現在もつねに現在であって、過去に移りゆかないなら、もはや時間ではなくして永遠であるであろう。それゆえ、現在はただ過去に移りゆくことによってのみ時間であるなら、わたしたちはどうしてそれの存在する原因がそれの存在しないことにあるものを存在するということができるであろうか。すなわち時間はただそれが存在しなくなるというゆえにのみ存在するといって間違いないのではなかろうか。第十一巻第十四章

 

 ――わたしは存在し、認識し、意志する。わたしは認識し、意志しながら存在し、わたしが存在して意志することを認識し、存在して認識することを意志するのである。それゆえ、この三者において、生命が、いや、一つの生命、一つの精神、一つの本質がどれほど不可分的であるかを、またその区分がどれほど不可分的でありながら、しかもなお区分であるかを、認めることのできるものは認めるがよい。